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2011年12月26日 (月)

カトリック教会に今何が起こっているのか

クリスマスイブの夜に、何年かぶりに(宮津以来)、降誕祭のミサを受けるために、カトリック神戸中央教会へ行ってきました。

しかし、そこで、さまざまな違和感を感じて、頭の中が「???」状態。ここは本当にカトリック教会なのか。わたしの知ってるカトリック教会のミサとはだいぶ違う感じがした。

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まず第一に、キリスト像が、あのINRIでおなじみの、磔の十字架じゃない。ステンドグラスにはキリストが受難を受けて磔にされ、昇天に至るまでのストーリーが描かれているものの、像が違うのは違和感を感じた。

次に、祭壇らしきものがない。あるいは祭壇とそれ以外の場所との区別が曖昧。よく言えば敷居が低いのですが、それって、信仰という点においていいことなんでしょうか。キリストの受難を軽視することになるのでは。

わたしが名古屋の東山教会(降誕祭には布池教会)に通っていた子供の頃なんて、祭壇は聖域に等しく、ぜったいに足なんて踏み入れられる場所じゃなかった。親がクリスチャンというだけで、自分に信仰があったわけではないけれど、なんて言うか、あっちとこっちの線引きみたいなものは、ちゃんと自分の中でありましたよね。そういうのが、神戸中央教会では、曖昧になっているような気がした。

さらに、参列者の椅子に、肘をつく机と、膝をつく台がなかった。すなわち、ひざまずいて祈りを捧げるポーズが取れないわけなのです。祈りたくても祈れない作りの教会。一体ここは、どこなんだろう…。

そして、なんと言っても最大の違和感は、ベールをかぶっている人がいなかったこと。わたしが教会に通っていたのは中学1年までなので、もうずいぶん前ですが、今のカトリックの信者ってそうなんでしょうか。ちょっと考えられないのですが。

わたしは幼児洗礼だけで、大人になってからちゃんと洗礼を受けていないので、ベールもかぶらないし、聖体拝領のパンも受け取りません。だけど聖体拝領を受ける信者の方は必ずベールをかぶらなくてはいけないのでは?

それから、聖体拝領のときに神父が鳴らすベル、あれは聖別の意味があると思うんだけど、その音にも違和感を感じた。ぜんぜん空間に響いてなかった。澄み切った空間に響くベルの音、その後に続く静寂こそが、ミサの真骨頂だと思うんです。だけどそれがちゃんと守られていない。あれじゃあ聖別にならないのでは…。聖別されないパンはもはや聖体でもなんでもないですよ。

パイプオルガンの音も、先日、下見に行ったときに聴いた音より、よりずっと響きが悪かった。なんででしょうね?人が多かったから?

全体的に、グダグダ?って感じ。子供が野放しにされていたのでますますグダグダ感UP。わたしが名古屋の東山教会や布池教会に通っていた頃のような、ぴーんと張り詰めた空気がなかった。あの空気感が好きで、またミサに行きたいと思ったのに!

教会独特の厳かな香りがなかったな。カトリック神戸中央教会は阪神大震災で崩壊して、今の教会は新しく建て直されたものらしいですが、そのときになんかすり替わってる可能性がある。

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もうひとつびっくりしたのは、ミサの最中に募金箱が回ってくるんだけど(これは普通。どこでもそう)、その募金箱が、よれよれの紙袋だった。予算削るにもほどがある。思わず目が点になってしまいました。

寄付を募るわけだから、そんなに豪華なものであるわけはないのだけど、普通は、婦人会の方が手作りで作ったような、もっと暖かみのあるものなんだよね。無味乾燥な紙袋はあまりにひどすぎると思った。用さえ成せればそれでいいみたいな。

あと、天使祝詞(めでたし聖寵充ち満てるマリア~)の詠唱がなかったんだけど、降誕祭のときって、そうだったっけ?キリストの誕生日にマリアを無視するのって、おかしくないか?

ちょっと調べてみたところ、聖母マリアを無視・軽視するのは、どうやらプロテスタントの特徴みたいです。カトリック神戸中央教会は、カトリック教会の皮を被った何かになってますね。

地域的なものもあるのかな、たぶん神戸ってあんまりカトリックの勢力が強くない地域なんだろうな。名古屋はカトリックが強い。宮津も。

神戸の「神」って、どの神を指しているのだろう。アマテラスかな?戸は岩戸の戸?しかし、神道の神と競合しますかね、カトリックは。

宮津のカトリック教会は和洋折衷で、その点、うまく融合されています。畳敷きの小さい教会で、人口も少ないために、アットホームな感じで、肩肘張った感じではないんだけど、それでも教会という厳かな雰囲気はあるんだよね。歴史的建造物でもあるし。

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数年ぶりに行った降誕祭のミサであまりにショックを受けてしまったので、来年は神戸中央教会ではなく、夙川教会へ行こうかなと思ってます。写真見る限り、伝統的な教会みたいだし。なんとなく 宮津の教会と似てる。

パイプオルガンは阪神大震災で倒壊してしまったそうだけど、宮津だってパイプオルガンではなく、小さなリードオルガンしかありません。それでも、大切に守られてきているなにかが、いまだ息づいているのを感じる。

決して予算や規模とかの問題ではないと思う。やっぱ、大切なのは、歴史と伝統なのではないでしょうか。

主祷文(天にまします我らの父よ~)も10年ぐらい前から?口語訳になってるし、すごく違和感がある。これはどこの教会もそうだそうです。数年前に行った宮津のミサでもすでに口語訳だった。こうやって歴史と伝統はちょっとずつ破壊されていくものなのね。

子供の頃は主祷文(文語訳)をパイプオルガンの音色に乗せて、歌の歌詞っぽく詠唱してた。懐かしいな、またあれが聴きたいなぁ。

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コメント

謹啓

 不躾なお便りをお届けすることをお赦し下さい。私は東京大学法学部平成六年度卒業生、岡山カトリック教会所属信徒の漆原健と申します。

 私はこのたび、物理学者ヴォルフガング・スミスの著作「宇宙と超越 科学主義的信念の壁を突破して」の拙訳を出版いたしました。近代自然科学や心理学の幻想を根底的に批判するとともに「永遠の哲学(philosophia perennis)」としてのキリスト教の核心思想を闡明したものです。

 原書はアメリカのカトリック各誌書評においてきわめて高く評価され、日本でもトマス・アクィナス研究の権威稲垣良典先生が著作で本書に言及なさっています。

 もしご興味をお持ちいただければ、お読みいただければ大変幸いに存じます。Kindle、Android、iPadなどのタブレット端末でお読みいただけます。五月十九日に無料配信キャンペーンを予定しております。
                                謹白
                               漆原 健

投稿: 漆原健 | 2013年5月 9日 (木) 23時47分

はじめまして神戸のカトリック信者です。
神戸中央のイエス様は復活のイエス様です。東京のイグナチオ教会も同じです。だから磔刑の姿ではありません。
膝躓き台も最近はあまり見なくなりました。震災で壊れ立て替えた教会は円形で祭壇との差も低くなりました。ミサは主の食卓をみんなで囲み祝うからだそうです。
 昔のミサと随分変わりましたよね。昔のミサも懐かしいですが、今のミサも好きです。子供がいてお年寄りがいらしゃって、家族のような雰囲気の中で、主のもとにみんなが集まりミサに与り祝福され心豊かに派遣されていくところが...。

下記の記事は大阪教区のものですが、参考になさってください。
http://osaka.liturgy.jp/?proc=japaneseslashqaslashqa1slashqa1_001

投稿: Raphaela | 2013年12月29日 (日) 21時35分

主様今晩は、本日中央教会に私と家族で行ってきました。私自身長崎のカトリックの学校に言っておりました。授業の一環で水曜日はミサがありました。私の印象として、賛美歌のリズムテンポというのでしょうか、随分違うな・・・。と思いました。私の記憶ではもっとリズミカルである面ジャズポップスみたいな感じが記憶に残っています。又神父様が聖体をお口にする際のベルの音は懐かしく幼き頃の記憶を思い出しました。もしお会いできて一緒に教会に行けると良いですね?

投稿: ALEX | 2015年4月20日 (月) 00時20分

七草みけさま、
本記事、興味深く読ませていただきました。

久しぶりに教会を訪れた方が、現在の状況をどのように感じられるかが、よくわかると思いました。

拙ブログに転載させていただきたく、よろしくお願いいたします。
何か問題ありましてら、ご連絡くださいね。

投稿: テレジア | 2016年2月 6日 (土) 01時10分

私はプロテスタントに35年いました、以前から見られたのですが、献金について凄く熱心で、信徒の年金生活より多く感じられていやになりました、また、福音派の教会のため、結びは十字架と愛で終わりますが、愛を強調する割には、信徒を裁くし、礼拝室はグランドピアノが鎮座して、一番前の席に子供が占拠して、厳かに礼拝を、という雰囲気でがありません、そのため、カトリックに行ってみたんですが聖体拝領という、聖餐式で聖書ではパンと葡萄酒を、とありますがウェハースみたいなパンだけで葡萄酒は一滴も回ってきません、聖母マリアの存在も、根拠と神学を教えてほしいと思います、また、ミサでは信徒は聖書は持ってこなくて前で担当者が朗読するだけですので、一般聖書を読んでいるのか、いないのか?です、プロテスタントもカトリックも「カクレ」みたいなものになっている感じです、主が来られた時果たして、信仰が見られるでしょうか、と思います、日本のキリスト教は熱心に議論しますが、信仰の実を結ぶことはできるのでしょうか。

投稿: パスカル | 2017年6月21日 (水) 14時05分

まず、、、私たちは神の子であることを、書かせてください。

神の子が復活するまで、私たちは奴隷の身分でした。
主イエスが復活して、私たちは解放され、自由の身分になりました。
ですが今現在、私たちは本当に自由の身分になっているでしょうか?

時間に追われ、機械に囲まれて、
私はまるで奴隷の身分になっている気がします。

あなたは「野放し」という言葉を書いていますが、
良い意味に書き換えると、聖書でいう、
神の国に入るには、幼子のようにならなければいけない、
この意味に当てはまりませんか?

私たちは神のみ前では、野放しにされている子供のように、
自由でなければいけません。
このことは教皇フランシスコも、
演説の中でおっしゃっていました。

教会は母であり、聖なる祈りの家です。
沈黙の場です。初代教会は立派な建物はありませんでした。
潜伏キリシタン時代も同様でした。

アンジェラスの鐘が鳴らないのも、
近隣の方のことも考えて、鳴らさないことが多いのです。

あなたはご存知でしょうか?

神戸中央教会は、災害が起きた時や、
路上で生活なさっている方のための地域の場であることを。

無料で使用できるシャワー施設あり、無料ランドリールームあり、
休憩の場があり、子ども食堂あり、
福祉が充実している場所です。

教会は信者のためだけの場ではなく、
困っている地域住民の方のための、
隣人を愛し、隣人のために尽くす場所でもあります。

日本はまだ恵まれています。

イタリアでは、教会の扉の開閉時間が1日に数回、
1回につき2時間くらい。
しかもイタリア軍や警察などから、
セキュリティーチェックを受けないと、
中に入れません。

祈りたくても、自由に祈りに行くことができません。

私は自由に祈れる場所があること自体、
感謝しています。

投稿: テレジア恵理 | 2019年4月 4日 (木) 07時07分

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