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2015年11月14日 (土)

人生あきらめ主義

ちょっとここで、以前書いておいた文章を掲載します。たぶん五輪ロゴのパクリ問題のときに書いたものでしょう。そこに少し加筆しています。

◆◇◆ ◇◆◇  ◆◇◆

職業訓練校のWebアプリ開発科に通ってたとき、Webデザインについてもさら~っとやったんだけど、そりゃーパクリも横行するようになるわって感じの教え方だった。今はそれが普通らしいけどね。

とにかくいろんなサイトを見て真似しなさいって教え方だった。単にWebページの骨格を作るということならそれもありかも。でも、イラストレーションの一環としてのデザインならそれは絶対ダメだよね。絵は他の絵を見て学ぶのではなく、あくまでも実物を観察しなきゃ。

実物に対してどれだけの愛着を持っているかが、デザインの優劣を決定付けるような気がします。

ちなみに当ブログではかなりいろんなところからパクってきてます。一番大胆なパクリは、当ブログのシンボルマークにもしている色相環はオーラソーマのサイトからのパクリです。もちろん画像は自分で作ってますけど。

鳥のイラストなんかも、ネットにある画像を見ながら描いているものが多いですね。ほんと助かる。ネット様々。自分には絵やデザインの才能はないので。

ただ当サイトはデザインが目的ではなく、何でもかんでも記号化しちゃおうって趣旨なので、むしろ普遍的でオリジナリティがないことが肝要であるというか。

記号=集合無意識に働きかける言語みたいな。壮大なパズルを解き明かしていく感じ。作っている側じゃなくて、回答(=解凍)する側なんだな。だからオリジナリティはない(キッパリ!)

その説明として絵や図形を使うことがあるけど、それらはあくまでも説明のためのツールなので、省ける手間は省きたい。よって、パクリが多くなりますw

自分で絵を描ける人、デザインできる人はめっちゃうらやましいし尊敬するけどね。自分にはどうあがいてもその才能がないと気付いたとき、自分にしかできない自分の仕事があることに同時に気付いたというか。

まあ、それがコトタマや色や記号を使ったパズルですよね。仕事というより遊んでるんだけどねw

基本的に大体なんでもどうでもいい人なので、何事にもあんまり愛着ってないですね(うちの猫以外)。だから平気の平左でなんでも記号化して遊べるのかもしれない。

人生の傍観者であれ。これわたしの座右の銘。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃにゃ損損っていうけれど、わたしは見る阿呆に徹してる。

なぜって、踊る阿呆になるためには、それなりに賭け金が必要なんですよ。その賭け金すらない場合は、見る阿呆になるしか選択肢がないんですね。

自分が若いときは、若さが武器になるなんて知らなかった。いつも自分が人より未熟で遅れているような気がしてコンプレックスだったな。

若さを武器にできる人ってのは、実は相当やり手なんだと思うよ。すでに相当なスキル=賭け金を持ってるの。

わたしにとっての若さとは、無力の象徴。四方八方を高い壁に囲まれて身動きが取れず、いざ外に出たところでさまざまな脅威が待ち受けている。とてもじゃないけど無理…とあきらめて安全な家の中に引き籠もる。そしてそのまま年を取る\(^o^)/

安全な場所から世界を俯瞰して笑う。きっと最も蔑まれる嫌な奴、なんだろう。でも、ないものはないのだからしょうがない。きっといつかの人生で踊りすぎて、賭け金スッカラカンになっちゃったんだ。

人生あきらめも大切。諦観というのは、とても日本人らしい心持ちなんじゃないかな。悟性は諦観から生まれる。あきらめたときに初めて見えてくるものもある。

「あきらめる」の古語は「あきらむ」といい、物事に執着せずに、その道理を明らかにすることという意味があるそうです。英語ではgive upですが、英語のほうも字面からすると、運を天に任せるとか、そんな意味合いがありそうな気がします。

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