カテゴリー「わたくしごと(私事)」の105件の記事

2015年11月14日 (土)

人生あきらめ主義

ちょっとここで、以前書いておいた文章を掲載します。たぶん五輪ロゴのパクリ問題のときに書いたものでしょう。そこに少し加筆しています。

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職業訓練校のWebアプリ開発科に通ってたとき、Webデザインについてもさら~っとやったんだけど、そりゃーパクリも横行するようになるわって感じの教え方だった。今はそれが普通らしいけどね。

とにかくいろんなサイトを見て真似しなさいって教え方だった。単にWebページの骨格を作るということならそれもありかも。でも、イラストレーションの一環としてのデザインならそれは絶対ダメだよね。絵は他の絵を見て学ぶのではなく、あくまでも実物を観察しなきゃ。

実物に対してどれだけの愛着を持っているかが、デザインの優劣を決定付けるような気がします。

ちなみに当ブログではかなりいろんなところからパクってきてます。一番大胆なパクリは、当ブログのシンボルマークにもしている色相環はオーラソーマのサイトからのパクリです。もちろん画像は自分で作ってますけど。

鳥のイラストなんかも、ネットにある画像を見ながら描いているものが多いですね。ほんと助かる。ネット様々。自分には絵やデザインの才能はないので。

ただ当サイトはデザインが目的ではなく、何でもかんでも記号化しちゃおうって趣旨なので、むしろ普遍的でオリジナリティがないことが肝要であるというか。

記号=集合無意識に働きかける言語みたいな。壮大なパズルを解き明かしていく感じ。作っている側じゃなくて、回答(=解凍)する側なんだな。だからオリジナリティはない(キッパリ!)

その説明として絵や図形を使うことがあるけど、それらはあくまでも説明のためのツールなので、省ける手間は省きたい。よって、パクリが多くなりますw

自分で絵を描ける人、デザインできる人はめっちゃうらやましいし尊敬するけどね。自分にはどうあがいてもその才能がないと気付いたとき、自分にしかできない自分の仕事があることに同時に気付いたというか。

まあ、それがコトタマや色や記号を使ったパズルですよね。仕事というより遊んでるんだけどねw

基本的に大体なんでもどうでもいい人なので、何事にもあんまり愛着ってないですね(うちの猫以外)。だから平気の平左でなんでも記号化して遊べるのかもしれない。

人生の傍観者であれ。これわたしの座右の銘。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃにゃ損損っていうけれど、わたしは見る阿呆に徹してる。

なぜって、踊る阿呆になるためには、それなりに賭け金が必要なんですよ。その賭け金すらない場合は、見る阿呆になるしか選択肢がないんですね。

自分が若いときは、若さが武器になるなんて知らなかった。いつも自分が人より未熟で遅れているような気がしてコンプレックスだったな。

若さを武器にできる人ってのは、実は相当やり手なんだと思うよ。すでに相当なスキル=賭け金を持ってるの。

わたしにとっての若さとは、無力の象徴。四方八方を高い壁に囲まれて身動きが取れず、いざ外に出たところでさまざまな脅威が待ち受けている。とてもじゃないけど無理…とあきらめて安全な家の中に引き籠もる。そしてそのまま年を取る\(^o^)/

安全な場所から世界を俯瞰して笑う。きっと最も蔑まれる嫌な奴、なんだろう。でも、ないものはないのだからしょうがない。きっといつかの人生で踊りすぎて、賭け金スッカラカンになっちゃったんだ。

人生あきらめも大切。諦観というのは、とても日本人らしい心持ちなんじゃないかな。悟性は諦観から生まれる。あきらめたときに初めて見えてくるものもある。

「あきらめる」の古語は「あきらむ」といい、物事に執着せずに、その道理を明らかにすることという意味があるそうです。英語ではgive upですが、英語のほうも字面からすると、運を天に任せるとか、そんな意味合いがありそうな気がします。

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2014年7月18日 (金)

雪の隠者と太陽の隠者

May J.についての記事を連載中ですが、今日はちょっと自分自身のことについて書きます。というか、Twitterに書き散らしたことをまとめます。

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わたしのモットーは「人生の傍観者であれ」 まあ、好きでそうなったわけじゃないけどな。誰だってこんな役目は貧乏くじだと思うでしょう?

たったひとりで、自分が決して交わることのできない世界の、その外側からいつも観察しているの。だってそれしかやることがないから。

時々落ちてくる物を拾うぐらいかな。なんだろう自分、ゴミ捨て場みたいな場所にでもいるんかな(;^ω^)

視線は意志でありエネルギー。見ているだけじゃ世界は変わらないという。でも、それならどうして、人は視線を集めたがるの。

少し悲しいような、少し怒ってるような、それでも澄んだ大きな目が、いつもわたしの心の中にあって、その目と一緒にわたしはいつも世界を見ている。

その目はなんとなくその子ちゃんの目に似ている。

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ところで、もうずいぶん前のことになるのですが、誕生日の花の組み替えをしてあります。全体としては変わってないのですが(これはよっぽどのことがない限り変更はありません)、メインとサブ()の組み替えをしました。

【誕生日の石と花(日付順/石順/All)】
有名人の13惑星分類表/誕生日順/名前順

 誕生日の花メインとサブの説明:
誕生日の花として、より伝統的、一般的だと思われるものを本やネットを参考に5パターン採用し、さらにその中からよりふさわしいと思う配列に、1日1つの花を366日重複しないように選んだものがメインの花、それ以外の4つの花をサブの花としている。

誕生日の花は常に最良になるように調整しています。組み替えのルールがあるので、そう簡単ではありませんが、一応、でたらめにやっているつもりはないです。

で、それによって、誕生日の花が変更になっている人がいます。

実はわたしの誕生日である1月7日もそうです。以前は白いチューリップだったのが、スノードロップ(待雪草)になりました。もちろん白いチューリップもサブとして控えています。

上運天尚子【/】【紫水晶/待雪草】【白い宇宙の魔法使い】【山猫

【関連記事】
あめのみくりや:白いチューリップの詩
あめのみくりや:命日と誕生日について覚え書き

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それをふまえて、snow スノードロップ snow の話を少し。

Galanthus_nivalis_2ちょうど最近は『アナ雪』がマイブームで、雪の女王関連のついでとして、わたしの誕生日の花であるスノードロップの話もちょっと書いてみようと思います。

スノードロップは昔からわたしの大好きな花です。あのひっそりと下を向いた奥ゆかしい雰囲気といい、純白で清純な感じといい、花びらが3枚の不思議な形状といい。
(※ 画像の出典:スノードロップ- Wikipedia

花びらは本当は外側3枚+内側3枚の計6枚だと思うのですが、外側の3枚だけ目立っているので3枚に見えます。

W031230b033この3という数字もわたしが一番好きな数字です。三角っていいですよね。色と音と数の法則も、雪の結晶も、上下の三角を組み合わせた六芒星が基盤になっています。
(※ 画像の出典:SnowCrystals.com

スノードロップはヨーロッパ原産の花で、キリスト教との関わりが深く、多くの神話や伝説があります。その中でも特に有名なのは、聖書の失楽園のくだり。

智慧の実をこっそり食べてしまって神の怒りを買い、楽園を追放されたアダムとイヴが、永遠に終わらないとも思われるような深い雪と冬の時代に嘆き悲しんでいたとき、ある天使が、雪をスノードロップの花に変えて彼らを慰めたという話。

そのことから、花言葉は「希望、慰め、恋の最初のまなざし、まさかのときの友」となっています。日本語のことわざに言い替えれば「地獄に仏」という感じでしょうか。

スノードロップは直訳すると「雪の雫」。ヨーロッパでは春の訪れを告げる花。雪を溶かすようなイメージですね。

しかし、和名では待雪草[まつゆきそう]といい、雪を待つ花という逆の意味になっています。雪を割って咲く花という意味で、雪割草[ゆきわりそう]という別の花がすでにあるからでしょうか。

また、スノードロップはその純白の外観から死に装束を連想させるとして、不吉な花と言われることもあるそうです。特にこの花を人に贈ると「あなたの死を望みます」という意味になり、注意が必要だとか。

あなたの死を望みます…なんちゅう恐ろしい花言葉だ。ほかにある?こんなの。いくら自分の大好きな花だからといって、人への贈り物にすることは避けたほうがよさそうですね((((;゚Д゚)))))))

そこらへんがもしかしたら関わってるのかもしれないんだけど、わたしは昔から人と深く関わり合うことが怖くて。なぜかというと、自分が無意識の干渉で人を傷つけてしまうような気がして怖いからです。

そのように思うようになるには、それなりの理由があるのですが、まあそれはいいか。

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他に、以前にブログで取り上げた人物の中で誕生日の花が変更になっているのは、ケイト・ブッシュです。以前はニチニチソウ(日々草)だったのが、菩提樹になりました。

菩提樹の花言葉は「夫婦愛、熱愛、結婚、結ばれる」なんだかとてもおめでたそうです。菩提樹は仏教と関わりが深く、仏陀が菩提樹の木の根元で悟りを開いたといわれています。

ケイト・ブッシュ【/】【琥珀/菩提樹】【赤い太陽の空歩く者】【

【関連記事】
あめのみくりや:魔物語第二章 琥珀と日々草の歌

んっ…?魔物語第二章?いよいよ始まるのでしょうか???

そういえばケイトも復活の兆しでしたね。

【参考リンク】
【1979年以来35年ぶり!】ケイト・ブッシュ、ロンドンでフル・ライブ!! | Qetic - 時代に口髭を生やすウェブマガジン “けてぃっく”

ただでさえライブは苦手なケイト、何十年も引き籠もっていて今更歌えるのだろうか?それにすっかり太っちゃってたけど、ダイエットはしたのだろうか?なんかいろいろ心配ですw

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2014年6月15日 (日)

雪の女王と氷の白鳥

アナと雪の女王』が大人気ですね。わたしも珍しく、映画館に観に行きました。

それ以前にすでに主題歌の『Let it go』等もYouTubeで聴いていたのですが、日本語歌詞を聴いたとき、ふとよみがえる記憶がありました。

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ちょうど10年前、2004年のゴールデンウィークの頃です。

ちょうど今流行りの「雪の女王」と形容できるような意識に、10年前に少し触れたことがあります。その話を以前もちょっと書いたと思うのですが、これを機にもう少し掘り下げて描いてみようかなと。

ちょっと触れたというのは、その意識の一部が憑依して、自分と一体化していたということです。わたしは霊が見えるとかいう類のいわゆる霊感体質ではないのですが、エネルギーがなんとなくわかるというのと、なぜかたまに目に見えない存在に憑依されることがあります、ということをまず前提に。

自分の意志でその状態を起こせるわけではありません。あくまでも向こうから勝手にやってきます。自動的に流れてくると言ったほうがいいのか。まあ、要はよくわからないのです、自分でも。

それはとても冷たいオーラだった。その気を纏っているときの自分はまるでまるで歩く冷凍庫みたいに、周囲1mぐらいかな(もっとあったかも、自分ではよくわからなかった)、通りすがりの人が「何?寒い!」と飛び退くほどだった。

その頃、同居人はわたしに死霊が憑いていると言って気味悪がって近づかなかった。

宅配便の人は何か恐ろしいものを見たかのように用が済んだら逃げるように去って行った。(失礼しちゃう)

でも、冷凍庫オーラを纏っている自分自身は全然寒くなくて、内部は暖かかったのだけど。まさに『Let it go』の「少しも寒くないわ」の状態だった。

ちなみに、きらとくくるはいつもどおりわたしにべったりだったと思います。猫にとっても寒くはなかったのでしょう。わたしと猫だけが内部にいたということか。

それも一時的な現象で、すぐに通り過ぎていったけどね。

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何度か言及しているかと思いますが、これらの一連の事象は、2004年3月20日の、オランダ前々女王ユリアナの崩御とシンクロしていたようです。

当時はまったくわからなかったのですが、調べていくうちに徐々にわかってきました。

そのオランダですが、ちょうど一年前ぐらいに、前女王ベアトリクスが退位して、現在は息子が王位を継承しているらしい。王家では百年ぶりに生まれた男子なのだとか。じゃあ、今オランダは女王の国じゃないのですね、知らなかった。

オランダで国王即位式 ベアトリックス女王の退位受け

女王が退位を表明したのは今年1月。国内メディアは、昨年オーストリアのスキー場で雪崩に巻き込まれ、こん睡状態に陥ったままの次男ヨハン・フリーゾ王子のそばにいるために退位を決めたとの観測を伝えた。

- 2013年4月30日付、CNNより

雪崩に巻き込まれ…雪と女王…

オランダのフリーゾ王子死去、スキー事故後意識戻らず

2004年、同国の王位継承順位4位だったフリーゾ王子は、かつて麻薬王と関係があったと報じられたマーベルさんと結婚するに当たり、王位継承権を放棄していた。

- 2013年8月13日付、AFPBB Newsより

麻薬王…しかも王位継承権を捨てて結婚したのは2004年…

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今思えば、あの冷凍庫状態はけっこう面白かった。単に冷気のオーラを纏っているだけじゃなくて、すべての事象が自分とシンクロしている感じ、宇宙の中心が自分という感覚、常に海の中を泳いでる感じ。空間を満たしている要素が体感的にわかるという。

宮沢賢治の童話の世界のような体験をしたのもこの頃です。カエルのオーケストラとか、ほんと今でも録音しておけばよかったと悔やむぐらいw

面白かったけど、いいことばかりではなかった。ネガティブ面もあったからね。というか、ネガティブ面のほうが大きい。人の悪意とかもすごくクローズアップして聞こえるわけ。あの状態に長期間は耐えられるもんじゃないだろう。統合失調症一歩手前なわけだからね。

今でも時々ナチュラルらりぱっぱ状態にはなるものの、あそこまで深く入り込むことは、もうないですね。やっぱり当時のネガティブな思い出がわたしの心にブレーキをかけますw。それは結果的に自分を守ることにもなっているので、まあよかれ悪しかれですね。

ちなみに、当ブログの根幹である[色と音と数の法則]はそのときに生まれました。海に潜って、引き上げた収穫物みたいな感じ。

この法則を構築した経緯ってのを今までちゃんと書いていないので、書きたいなとは思っているのですが、理論的に説明できるような経緯がないのでどうしたものかと。ただ、これはここ、これはこう、と直感的にパズルができちゃったみたいな感じだから。ただ、自分ですごく検証もした。

この法則の一番根っこになってるのが、古事記なんですよ。色と形状はオーラソーマの色相環に似てますが(つーかパクリなんでw)、説明するためのツールにちょうどいいから使ってるだけ。

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当時の経験について、当ブログの過去記事で少し言及しています。解説とか書いてありますが、全然解説にはなっていませんw

その後、一転して極寒地獄に。キーワードは氷漬けの白鳥。月の冷凍庫に保存されている。氷漬けの中での母子関係。冷凍庫に宿った胎児。…凍結受精卵のことだろうか?

【関連記事】
あめのみくりや:過去の日記の解説

その過去日記そのものについては、現在公開しておりませんが、一部だけ抜粋して以下に掲載します。(全文ひらがなだと読みにくい部分は漢字に変換しています)

■2004/04/29(木)
こんどは こおりづけの はくちょう。さむすぎ。おーい、おかあさん、ひーたーいれて。

■2004/04/30(金)
わたしは宮津を極寒地獄へしてしまうつもりなのでしょうか。そのうち雪が降るんじゃないか。

自分の血統へのすさまじいまでのこだわり、というか、執念がそうさせているようです。溶かしてあげたいものなのですが、どうしたものやら。

あ、そうか。乱れた言葉がだめみたいです。ことばづかい、とかのことじゃなくて、正統な高天原の言葉でしょうね。やっぱり本物の“あい”でないとだめみたい。

■2004/05/04(火)
あー、はやくままにあいたい。どうしてこんなにさむいのかなぁ。でも わたしのこころは とってもあったかい。てあしはさむいけど こころがあったかくてしあわせ。わたしこれをもって うまれるんだね。まえはこれがなかったから かわいそうなことになっちゃった。ちゃんとこれをもって うまれることができるのが とってもうれしい。わたしがずっとほしかったもの。ほんものの“あい”。みんなありがとう。

「わたし」と書いてありますが、今現在のわたしではありませんw。そのときわたしに憑いていたものの意識がわたしと一体化していたので、“わたし”と感じただけだと思います。

“雪の女王”が周辺地域(このときは宮津にいたので、宮津だと思った)を凍らせたのは、自分の血統への凄まじいまでのこだわりのため、と書いてある。溶かすためには「本物の愛」が必要だと。

ここでいう本物の愛、真実の愛とは、自己愛に近いものではないだろうか?

王族ってのはそういうものだよね。何よりも血統が大切。

『アナと雪の女王』でも、最終的にエルサとアナを救ったのは、王子様のキスではなく、互いの姉妹愛でした。血のつながりこそが真実の愛であると言わんばかりに。

より自分に近しいもの。エルサとアナが表裏一体で、実は一人の女性の裏と表とするならば、まさに自己愛こそが自らを救ったわけです。

でも、その女王の意識の一部が赤の他人の日本人に流れてきているのはどういうわけなんだろう。物質的な血統だけでなく、もっと高次の霊統というものもあるのでは。

その雪の女王ですが、わたしは過去日記にあるように、“氷漬けの白鳥”という象徴で認識していました。原題の『Frozen』のほうが近いですね。白鳥は、はくちょう座のこと。

はくちょう座北十字ともいって、キリストを磔にした十字架と同一視される。それが凍り付いている…ということは、どういうこと?

氷漬けの白鳥が解凍されるとき、それがキリスト意識の目覚めということなのかもしれません。それが真実の愛であり、真実の自己に目覚めるということ。

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ちょっと盛り込みすぎて長くなりましたが、最後に、松たか子の歌が世界中で大好評を博したという、『Let it go』の25カ国語バージョンを貼っておきます。日本語の響きの美しさが際立っているように感じるのは、きっとわたしだけではないのだろう。

V.A. / 『アナと雪の女王』「Let It Go」(25ヵ国Ver. )映像

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2014年5月 8日 (木)

うちの猫の家系図

Catsfamilytree1

うちの猫たちの家系図を書いたので、UPしておこうと思います。

今現在うちにいるのは、きら、くくる、はる、さくら、ぴか(ひかり改名)だけです。

きらの兄弟であり、くくるの父親でもあるカブキ、そしてきらの姉妹のさらちゃんは宮津にいた頃に行方不明になってしまいました。

だけど今までも、そしてこれからも、きらちゃんはさらちゃんとふたりぶん、くくるはカブちゃんとふたりぶん、いつもそう思ってます。

もちろん生きていてほしい。どこかで幸せに暮らしていてほしい。里子に出したきらの子供たちも幸せでありますようにといつも願っています。

いつか、これは本当に夢なんだけど、みんな一堂に会して、感動の再会をしたいなぁ。そのときはきっと、まりも一緒だね。わたしはまりとふたりぶん、なんだよ。

その願いを込めて、それぞれの猫たちの似顔絵を描きました。ちゃんと一匹一匹個性も違えば顔も違うからね。色や模様だけじゃなくて、ちゃんと顔を描き分けないといけないわね。

まあまあ、うまく描けたんじゃないかな。同居人もみんな似てるって言ってくれました♪

背景のテキスタイルは、わたしが初めて自分で張り替えた椅子の生地を撮影して取り込みました。

↓この椅子。特別出演:ぴかちゃん

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おまけ

きら・さら・かぶきの写真

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こちらは保護直後。天橋立に捨てられていて、売店のお姉さんが気にかけてくれていました。

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【関連記事】
あめのみくりや:キラキラ☆マスター様

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2013年5月15日 (水)

hideのこと プロローグ

とりあえず一段落ついたみたいなんで、hideについての続きを書いていこうと思います。と、思うんだけど…、hideの音楽と出会ったここ1ヶ月の間に、個人的に起こった怒濤の展開を、一体どこから、どのように書けばいいのかとまだ考えあぐねています。

それはまるでセントラルドグマを覆すRNAウィルスのごときどんでん返しでした。だけどそれはあくまでも個人的な出来事なので、あんまり書けないかな、こういうところには。ヽ(´ー`)ノ

音楽を聴いて初めて好きになったとかファンになったとか、そういうことじゃないんです。本当は1ヶ月前に知ったばかりなんじゃなくて、自分が気づいていないだけで本当はずっと前から……、そのことに気づいたのがつい1ヶ月前というのが正確でしょうか。

どうやらわたしは、どこか上の次元の意図によって、hideに関する情報は遮断されていたようなんです。Xのファンであったにもかかわらずhideのことを「赤い髪の異様な雰囲気の人」という以外ほとんど知らなかったし、Xのライブは2度ほど行ったことがあるのに、hideのソロコーナーの記憶がないし、自分でもおかしいと思うぐらい、不自然なほどにhideの存在を認識できなかった。それが1ヶ月ほど前から急に堰を切ったように情報が入ってくるようになったということです。

なぜ死後15年もたってはじめて紐解くのか、それは自分でもよくわかりません。考えられることは、それまでは魂の次元でペアレンタルコントロールがかかっていて、それが最近になってようやく外れたということではないかと推測しています。

接触しても完全に安全だと思われるようになるまで待っていた(hideの存在はある意味危険物であった?)、あるいは、自分がhideの享年よりもずっと年上になるのを(危険物を安全に取り扱えるようになるまで?)待っていた。たぶんこのあたりかなぁ。

…あんまり軽く書けない。この人に対してわたし、ミーハーになれない。生前の本人はミーハーな人だったらしいけど、それはそれ。わたしは無理。わたしがhideに対して抱く想いがたぶんファン心理ではないからだと思います。複雑すぎて、自分でもよくわかんない!ヽ(´ー`)ノ

今回はこれだけ書いて力尽きたので、内容はありません。次回から書いていきます。

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2013年1月27日 (日)

魔物語と聖家族

【前回までの記事】
あめのみくりや:茅の毒と意富斗能地
あめのみくりや:昭和の墓標とウロボロス
あめのみくりや:伊園若女と河合その子

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ルーシーという象徴的な名前は、魔王ルシファー(=堕天使ルシフェル)から来ているものと思われる。

ルシファーって、わたしの中では、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)のイメージ。あの建物って、むしろ魔王の城のような禍々しさを感じさせるよね。まるで無数の人骨でできているような気すらする。

16_2

↑2026年に完成予定のサグラダ・ファミリアの完成予想図。今はまだ肝心の中央の塔がありませんよね。それでいてあの禍々しさなのだから、完成したらどうなるのか楽しみです。

前記事で『多重人格探偵サイコ』伊園若女の内面世界のイメージ図をひとつ掲載しましたが、もうひとつ14巻にもそんな絵があったっけと引っぱり出してきて、ここでまたわたしはひとつ気づいてしまった。

Imgp1367_2

ちょっと見にくいので拡大表示してみてください。問題の右側の部分だけさらに拡大した図はこちら

これ、10歳の若女の内面世界をイメージした図なんだけど、右側の魔物が飛び出してきてる絵のあたり、なんとなくケイト・ブッシュの『魔物語』に似てるなと思って比べてみたら、なんのことはない、そのまんまでしたw

Kate_never_for_ever

作者が『魔物語』のジャケットを見ながら描いたのは確実でしょう。しかし、これパクリじゃん~とかそういうことはどうでもいい。重要なのは、なぜここに突然ケイトが出てくるのかということ。わたしにとってこの一致は偶然では済まされない。

その子ちゃんとケイト…なぜ関わってくる?誰も想像だにできない。しかしわたしの中では当然のようにつながっている。その子ちゃんはわたしが中学生のときから、そしてケイトはわたしが高校生のときから、ずっと音楽で支えてきてくれた人たちだからね。

もし二人がいなかったら今のわたしはありえないし、命があったかすらどうかすら危うい。「世界」に押しつぶされて息も絶え絶えだったわたしを、二人が(厳密には、三毛猫のまりも入れて二人と一匹)が助けてくれた。

つまり河合その子とケイトブッシュ…この二人は、わたしが自分の流した血によって、自分の中では容易くつながることなんです。

血でつながっている関係…それはもう家族だ。

子供の頃って、よく妄想で、自分の親は本当の親じゃなくて、今は事情があって家族のふりをしてる。だけどきっといつか、本当の家族が迎えに来てくれるんだ。そんなイマジネーションを繰り広げることってなかったですか。

わたしもかなり本気でそう思ってましたね。子供の妄想、それもかなり多くの子供たちに共通する妄想、それはきっとどこかの次元では真実なのではないでしょうか。わたしはそんなふうに思います。

本当の家族よりもっと強い絆で結ばれた、見えない血でつながっている関係…その関係性のことを、聖家族と呼ぼう。

【関連記事】
あめのみくりや:襁褓の中の魔物語
あめのみくりや:血の記憶

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2013年1月25日 (金)

昭和の墓標とウロボロス

【前回までの記事】
あめのみくりや:茅の毒と意富斗能地

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多重人格探偵サイコ~雨宮一彦の帰還~』では、昭和の時代はルーシー・モノストーンと共に去って行った。

よく、一目惚れの比喩として、「雷が落ちたようなthunder」と表現することがあるけど、私がその子ちゃんを初めてテレビで見たとき、まさに、原爆を落とされたような衝撃がありました。彼女の登場と同時に、昭和という時代ごと、古い芸能界が焼き払われた。

わたしの中学生時代は、ほとんど人と関わりを持てないような閉じ籠もったような状態だったけど、唯一、わたしの領域に、その眩いばかりの圧倒的な魅力でアクセスしてきてくれるのが、河合その子というひとりのアイドル歌手だった。

まさに青天の霹靂のように、彼女はわたしの前に現れた。

彼女との出会いは、わたし自身の救済であると同時に、わたしの終わりでもあった。なぜなら、わたしは一瞬にして悟ったから…自分の限界を。

自分の限界を知るってことは、そこで死ぬってことだよ。そしていったん死んだあとはまた生まれ変わるんだよ。そうそう簡単な話じゃない。なんといっても一度死ぬわけだから、人生を架けた大仕事。何十年もかかるよ。

針でちょこっと刺されたような傷ならすぐに治るけど、雷落ちたり原爆落とされたりした傷はなかなか治らないじゃん。いったん全身腐り落ちたあとに再び生まれ変わらなきゃいけないぐらいのダメージだよ。蝿男みたいにさ。って、たとえ悪すぎw

『多重人格探偵サイコ』と河合その子との関わりについて、今までも何度か取り上げてきた。これはオフレコのようなもので、彼女はそれをわかる人にだけ(つまり現時点ではわたしにだけ)わかるようにしてる。

だけど、彼女は不特定多数にこの話題に触れてほしいとは思ってなくて、本気で隠しにかかっている。その本気具合にわたしは神妙な気持ちになってしまう。

気づいてるのわたしだけ?じゃあこの想いは誰とも共有できないし、わたしがひとりで解決していかなくちゃいけないものなんだなぁって。

だったらわたしも黙ってればと思われるかもしれないけど、ここはそうもいかない。わたしはわたしで活路を見いだしていかないと、なんかこう、息苦しくて窒息死してしまいそうな気分になる。

だからわたしはここに言葉を遺していく。ここはまりのお墓だし、わたしだけの庭だし、何を書こうがわたしの自由だもん。

王様の耳はロバの耳!と穴に叫んだ言葉は葦によって大勢に伝えられた。じゃあ、わたしの言葉は、茅によって伝えられるのかな。

ちなみに、茅って、わたしが子供の頃は「猫の尾草」って呼んでた。だって猫のしっぽみたいでしょ、ふわふわして。もともと野草や雑草が大好きなわたしだったけど、その中でも猫の尾草はとりわけ好きだったな。子供に好かれる草みたいですね。

そして猫のしっぽの付け根には龍の顔があることは、意外と知られていない事実なのです。

【関連記事】
あめのみくりや:ドラゴンヘッド、ドラゴンキャット
あめのみくりや:ドラゴンヘッド・ドラゴンキャット(追記)

それだけではない、茅の雑学もうひとつ置いておきますね。

茅とは、大晦日と6月の晦日に行われる大祓の神事である「茅の輪くぐり」に使われる草なのだだそうです。茅の輪はを象ったものとされ、水神の祭とも関連する。西洋にあてはめるとウロボロスの輪でしょうか。それは死と再生、永遠を意味する。

Shimenawa_2    Ouroboros_2

画像はWikipediaよりお借りしました。左は茅の輪、,右は自らの尾を咥えて円くなる蛇あるいは龍=ウロボロスの図。

蛇とか龍とか虹とか川とか細長いものが同一視されますね。えっと、あと、その子ちゃんは巳年生まれ!双子座の支配星は水星(辰星)!

【参考リンク】
大祓 - Wikipedia
ウロボロス - Wikipedia

◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆

あと2回続きます。

【つづきのもくじ】
あめのみくりや:伊園若女と河合その子
あめのみくりや:魔物語と聖家族

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2012年7月13日 (金)

うちの猫たちの似顔絵

今回はちょっと息抜きに、イラストをUPしようと思います。Twitterで散々(主に愚痴を)つぶやいてますが、新しい猫(しかも親子3匹)が増え、我が家は賑やかです。

猫って本当にそれぞれ個性豊かで、顔もそれぞれまったく違うんだなぁと、猫たちを見ていて思います。

それで今回は、3月11日(震災の日!)にひょんなことからうちにやってきた元野良妊婦・春のお披露目も兼ねて、似顔絵を描いてみました。

ついでに、きらとくくるも。それぞれの顔の特徴がうまく捉えられていればいいな。

Haru
まず春ちゃん。命名は同居人です。わたしは虎猫だから適当に「トラ」って呼んでたんだけど、なんかそれじゃ気に入らないらしいのでw

(ちなみに、春が細胞分裂でもして生まれてきたかのような、春にそっくりな仔猫たちは、トラ2号、トラ3号でいいじゃんと思ったんだけど、それもあんまりだということで、姉はさくら、弟はひかりと名付けられました。成長記録はこちら

春ってちょっと変わった顔していて、あごが出ているのが特徴です。でも、しっかりした大きなあごというわけでもなく、あごが貧弱なのに出ているというとても不思議な形状。目はセンター寄り。鼻は鷲鼻。

はっきり言って、可愛いという顔じゃない。性格も自己中で凶暴。春が来てからというもの、我が家に一悶着も二悶着もありましたよ(;´Д`)。震災の日に拾われただけあって、常に嵐を巻き起こす震災キャットなのです。

まあ、それはいいとして…(愚痴は主にTwitterでつぶやいてます(ーー;))

背景のモチーフはそれぞれの首輪の柄に合わせています。春は梅。早春のイメージで。でも、シャム猫っぽい骨格のせいか、和柄はあまり似合いません。意外と、チマチョゴリとかは似合いそうな気がするんですが…(;^ω^)

お次は、きらちゃん。

Kira

ずんぐりむっくり、おたぬきみたいなきらちゃん。輪郭からして、春とはぜんぜん違うよね。きらちゃんはあごがしっかりしています。お口のムニュωも大きすぎず小さすぎず絶妙な可愛さ。

きらちゃんの和猫らしい素朴な愛らしさにはいつも本当に癒されます。和風の首輪もきらちゃんが一番似合うの。

背景のモチーフは、もみじ。「いろは」ともいうよね。いろは=日本の母、きらちゃんはわたしにとって、永世名誉ままちゃんだからな!(`・ω・´)

最後は、くくる。

Kukuru

くくるはマンガ顔。目がでかくてあごがなくて、意外と鼻が高く?チワワみたいで、ファニーフェイスなんだけど、猫としては、いわゆる「可愛い」顔と言えると思う。しかもパパに似て美形でもあるという、希有な特徴が満載の顔。

性格はヘタレ、マザコン。女の子だけど女の子らしさはまったくなくて、かといって大人の雄猫っぽくもなく、まさに少年っぽい。永遠の少年猫。

9歳なのに、3ヶ月半の仔猫たちよりよっぽど童顔。まあ、仔猫たちが生まれつき老け顔というのもあるのですが(;^ω^)。我が家はなんだか時空が変ですw

背景のモチーフはクローバー。厳密には、クローバーの葉はこのようにハート型にはなっていません。四つ葉のカタバミっぽいね。

男の子っぽいので、花ではなく、葉っぱのモチーフのほうが似合うくくちゃんなのです。

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さくらとひかりの似顔絵は、またいずれ、顔がしっかり定まってきたら描こうと思います。モチーフはもちろん、さくらは桜の花、ひかりは花火の予定です。

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いずれの絵も、使用ツールはPainter X、使用ブラシはクレヨンと水彩でした。

Painterのクレヨンって、使いにくいですよね。しかし、使いにくいブラシをあえて使ってみたくなるわたしはドMなのでしょうか(;^ω^)

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2011年12月26日 (月)

カトリック教会に今何が起こっているのか

クリスマスイブの夜に、何年かぶりに(宮津以来)、降誕祭のミサを受けるために、カトリック神戸中央教会へ行ってきました。

しかし、そこで、さまざまな違和感を感じて、頭の中が「???」状態。ここは本当にカトリック教会なのか。わたしの知ってるカトリック教会のミサとはだいぶ違う感じがした。

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まず第一に、キリスト像が、あのINRIでおなじみの、磔の十字架じゃない。ステンドグラスにはキリストが受難を受けて磔にされ、昇天に至るまでのストーリーが描かれているものの、像が違うのは違和感を感じた。

次に、祭壇らしきものがない。あるいは祭壇とそれ以外の場所との区別が曖昧。よく言えば敷居が低いのですが、それって、信仰という点においていいことなんでしょうか。キリストの受難を軽視することになるのでは。

わたしが名古屋の東山教会(降誕祭には布池教会)に通っていた子供の頃なんて、祭壇は聖域に等しく、ぜったいに足なんて踏み入れられる場所じゃなかった。親がクリスチャンというだけで、自分に信仰があったわけではないけれど、なんて言うか、あっちとこっちの線引きみたいなものは、ちゃんと自分の中でありましたよね。そういうのが、神戸中央教会では、曖昧になっているような気がした。

さらに、参列者の椅子に、肘をつく机と、膝をつく台がなかった。すなわち、ひざまずいて祈りを捧げるポーズが取れないわけなのです。祈りたくても祈れない作りの教会。一体ここは、どこなんだろう…。

そして、なんと言っても最大の違和感は、ベールをかぶっている人がいなかったこと。わたしが教会に通っていたのは中学1年までなので、もうずいぶん前ですが、今のカトリックの信者ってそうなんでしょうか。ちょっと考えられないのですが。

わたしは幼児洗礼だけで、大人になってからちゃんと洗礼を受けていないので、ベールもかぶらないし、聖体拝領のパンも受け取りません。だけど聖体拝領を受ける信者の方は必ずベールをかぶらなくてはいけないのでは?

それから、聖体拝領のときに神父が鳴らすベル、あれは聖別の意味があると思うんだけど、その音にも違和感を感じた。ぜんぜん空間に響いてなかった。澄み切った空間に響くベルの音、その後に続く静寂こそが、ミサの真骨頂だと思うんです。だけどそれがちゃんと守られていない。あれじゃあ聖別にならないのでは…。聖別されないパンはもはや聖体でもなんでもないですよ。

パイプオルガンの音も、先日、下見に行ったときに聴いた音より、よりずっと響きが悪かった。なんででしょうね?人が多かったから?

全体的に、グダグダ?って感じ。子供が野放しにされていたのでますますグダグダ感UP。わたしが名古屋の東山教会や布池教会に通っていた頃のような、ぴーんと張り詰めた空気がなかった。あの空気感が好きで、またミサに行きたいと思ったのに!

教会独特の厳かな香りがなかったな。カトリック神戸中央教会は阪神大震災で崩壊して、今の教会は新しく建て直されたものらしいですが、そのときになんかすり替わってる可能性がある。

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もうひとつびっくりしたのは、ミサの最中に募金箱が回ってくるんだけど(これは普通。どこでもそう)、その募金箱が、よれよれの紙袋だった。予算削るにもほどがある。思わず目が点になってしまいました。

寄付を募るわけだから、そんなに豪華なものであるわけはないのだけど、普通は、婦人会の方が手作りで作ったような、もっと暖かみのあるものなんだよね。無味乾燥な紙袋はあまりにひどすぎると思った。用さえ成せればそれでいいみたいな。

あと、天使祝詞(めでたし聖寵充ち満てるマリア~)の詠唱がなかったんだけど、降誕祭のときって、そうだったっけ?キリストの誕生日にマリアを無視するのって、おかしくないか?

ちょっと調べてみたところ、聖母マリアを無視・軽視するのは、どうやらプロテスタントの特徴みたいです。カトリック神戸中央教会は、カトリック教会の皮を被った何かになってますね。

地域的なものもあるのかな、たぶん神戸ってあんまりカトリックの勢力が強くない地域なんだろうな。名古屋はカトリックが強い。宮津も。

神戸の「神」って、どの神を指しているのだろう。アマテラスかな?戸は岩戸の戸?しかし、神道の神と競合しますかね、カトリックは。

宮津のカトリック教会は和洋折衷で、その点、うまく融合されています。畳敷きの小さい教会で、人口も少ないために、アットホームな感じで、肩肘張った感じではないんだけど、それでも教会という厳かな雰囲気はあるんだよね。歴史的建造物でもあるし。

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数年ぶりに行った降誕祭のミサであまりにショックを受けてしまったので、来年は神戸中央教会ではなく、夙川教会へ行こうかなと思ってます。写真見る限り、伝統的な教会みたいだし。なんとなく 宮津の教会と似てる。

パイプオルガンは阪神大震災で倒壊してしまったそうだけど、宮津だってパイプオルガンではなく、小さなリードオルガンしかありません。それでも、大切に守られてきているなにかが、いまだ息づいているのを感じる。

決して予算や規模とかの問題ではないと思う。やっぱ、大切なのは、歴史と伝統なのではないでしょうか。

主祷文(天にまします我らの父よ~)も10年ぐらい前から?口語訳になってるし、すごく違和感がある。これはどこの教会もそうだそうです。数年前に行った宮津のミサでもすでに口語訳だった。こうやって歴史と伝統はちょっとずつ破壊されていくものなのね。

子供の頃は主祷文(文語訳)をパイプオルガンの音色に乗せて、歌の歌詞っぽく詠唱してた。懐かしいな、またあれが聴きたいなぁ。

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2011年10月16日 (日)

サイコと緑の少女と昭和の怨念

多重人格探偵サイコ~雨宮一彦の帰還~』で書き忘れたのですが、主人公の雨宮一彦のセリフで、こんなのがありました。

たぶん僕には、その「普通の人が持ってる、あるようなないようなもの」が、欠落してるんだ。その「あるようなないようなもの」が欠落してると、心が冷たくなっちゃうんだよ……真珠を飲み込んだようにね。

河合その子ファンなら、最後の「真珠を飲み込んだよう」の部分にピンと来ると思います。『緑の少女』。

河合その子の初期の傑作『緑の少女』の冒頭部分の歌詞と同じです。「真珠を飲み込んだよう」なんて表現は一般的ではないし、少なくともわたしは、この歌以外では聞いたことがありません。ということは、これは『緑の少女』へのオマージュなのでしょうか?

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あめのみくりや:緑の少女

このドラマの舞台は、昭和天皇の容態が危ぶまれる1999年、昭和74年ということになっている。あと10年、昭和が続いていたらっていう架空の世界だよね。年は10年ずれるけど、命日は現実世界と同じ1月7日ということになってました。

作中最大のキーパーソンであるルーシー・モノストーンの命日も、それに合わせるように1月7日でした。

ここにはわたし、こだわらざるを得ないんです。なぜなら、1月7日はわたしの誕生日だから。

あたかも見せしめのように、今上天皇の誕生日(12/23)にA級戦犯が処刑されたように、誕生日と命日って、密接な関係があるような気がします。今上天皇はいわば、呪いをかけられた。

そしてわたしも、昭和という時代に呪われている。

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ロリータ℃は物語の最後に言う。「まだ終わってないよ、だって、まだなにも始まってないもん」

そうだよね。

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