わたし、自分が着飾ることにはまったく興味がないって書いたけど、それはたぶん、普通に女らしい格好をすることに興味がないんだと思う。
かといって、他人が着ているのを見ること自体は、ロリータとかのふりふりのかわいいのが大好きなのね。お人形も女の子らしいかわいいのが好き。自分とはまったく正反対だから好きなんだと思う。
だけど自分が可愛い系・フェミニン系の格好をすることは100%考えられない。気持ち悪すぎる。自分が女装したキモオタのように思えてきてゲロ吐きそうになる。
そういう葛藤がめちゃくちゃあるのと、あと、あんまりいいたくない理由で、わたしは肌を露出することが本当にストレスなのね。女らしい格好ってたいてい露出が多いじゃないですか。だから苦手ってのもある。
たぶんこれは、被曝の後遺症だと自分では思ってる。もちろんわたしは46年生まれなので被曝なんかしてないし、わたしの母も17年生まれの鹿児島県出身で、長崎とは同じ九州ではあるものの、直接被曝はしてないだろうと思われる。
だけどわたしは、どうしても自分が、被曝者のように感じてしまうんです。だけどそんな事実はないのだから、誰にも言えない悩みだよ。
でもわたしが子供を産むことができない、そもそも子供を作る行為すら、気持ち悪くてできないのは、わたしが心のどこかで、自分の遺伝子は壊れているとわかっているからじゃないかな。
子供を産まないってのは、緩慢な自殺願望だと思う。積極的に自殺することはできないけど、せめて自分の代で終わりにしようという。
わたしの姉も妹も普通に結婚してるし子供もいる。どの子もみんなかわいくて、いい子ばかりだよ。姉と妹はきっとどこも悪くないんだと思う。きっとわたしが一人で一家の穢れを背負ったんだと思う。
実際わたしはなにも社会貢献できない穀潰しニートで最低の人間だから。だけどそれができないぐらいの重荷を背負わされたような気もしてる。人生のごく早い時期から、わたしは社会からなにもかも奪われたような気がしてる。
飛ぶためには翼が必要だし、走るためには足が必要。飛び方とか走り方の問題じゃない、そもそも飛ぶための翼、走るための足がない。
努力って、まず最低限の道具がそろってからの問題じゃない?それ以前の問題だから。努力しろというなら、まずわたしから奪った足を返してほしいの。そして奪われたその時期に戻してほしいの。簀巻きマットで転がされたままじゃなにもできるわけない。
わたしにとって常に外界は脅威。ストレスを感じる。肌というのは外界との境界線で、肌を包み込む衣類は、自分を守る鎧だと思う。
そこでファッションの話に戻るのですが、ブランド品ってのは、わたしは一種の武装だと思う。女が男に混じって、外の世界で戦うための武装だよ。最も攻撃力が高いのは、やっぱりシャネルかなぁと思う。
美しさは女性の「武器」であり、装いは「知恵」であり、謙虚さは「エレガント」である。
とシャネルのデザイナーであるココ・シャネルは言っていたそうですが、すごいよくわかる。
つまりわたしには、武器も知恵もエレガントさも何一つないのです。なにもないのだからせめて謙虚になればと普通なら考えがちだけど、わたしはそれすらも嫌なんです。
だってどれだけ足元見られるかわかったもんじゃない。謙虚さは、能ある鷹が爪を隠すときのポーズとして身につけるもの。戦うための武器もないのにただ謙虚なだけなんて、他人の都合のいい踏み台にされるだけ。
もう簀巻きマットでフルボッコは嫌なの。ただただ外部の暴力を甘受するしかなかった、無力な子供時代になんて戻りたくない。
わたしにはどうしてもそういう消えない記憶があるから、謙虚になんて絶対になれないんです。わたしは自分が自分の世界の王様であるぐらいの傲慢さを身につけなければ、あとは乞食になるしかないぐらい、のるかそるかのあとがない状態なんです。
そこで出会ったのが、コム・デ・ギャルソンの服でした。ギャルソンの服を見ていると、わたしはなぜか、この上ない安堵と癒しを感じました。
一般的には、ギャルソンの服は前衛的とか革新的といった奇抜なイメージがあるけど、外部のストレスに極度に弱いわたしの皮膚(境界線)を覆い隠し、脅威から守ってくれるのは、ギャルソンの服しかないとすら感じました。
やっと辿り着けた場所、みたいな?
ギャルソンの服は、「黒の衝撃」「広島シック」「カラス族」「乞食ルック」なんて呼ばれるそうです。岡本太郎の作品とどことなく通ずるものがある。特に渋谷駅の「明日の神話」。広島シックって、ホームシックのホームが広島に置き換わった言葉かな?原爆と関係あるのかしら?
コム・デ・ギャルソンのデザイナーは、川久保 玲という日本人女性です(顔写真はネットからの拾い物)。なるほど、わたしがシンパシーを感じたのは、ギャルソンの服にこそ、大和魂を感じたからでしょうか。
【参考リンク】
これでもか!というぐらい日の丸モチーフを使ったコレクション
VOGUE.com: 2007 春夏コレクション - Paris プレタポルテ - Comme des Garçons
コム・デ・ギャルソン(COMME des GARCONS)とは、フランス語で「少年のように」という意味です。わたしにはちょっと懐かしいブランド名です。
というのも、わたしの姉がデザイナーを目指してモード学園に通っていたとき、わたしは当時高校生だったのですが、姉の部屋にあふれかえるモード系のファッション雑誌をときどきパラパラと見ていたからです。そういうの絶対に自分で買うことはなかったけどね。わたしは親の買ってきてくれた服をそのまま着るような無頓着な子供だったから。
で、その当時によく聞いたブランド名の一つだったんです。姉のお気に入りのブランドの一つだったのかもしれない(姉は中学生の頃からブランドものばかり着ている大変なおしゃれさんでした)。
まさか、今になって、わたしまでこんなに好きになるとは思わなかった。「癒えない傷」というものがどういうものなのか、まだ当時のわたしにはわからなかったというか、自分の中にそういうものがあることに、まだ気づいていなかったから。まだ未来に一縷の希望を抱いていたから。今より当時のほうが、辛いことは多かったと思う。それでも今我慢すれば、きっと未来はあると信じてた。
ファッションで包帯を巻くのは中二病らしい。でもわたしには本当に、本当に包帯が必要だ。服は全身ギャルソンの黒ずくめじゃないといけないし、腕には包帯を巻かないといけないし、目にはサングラスをかけないといけないし、マスクと帽子、手袋も必要だ。そうしてやっと、わたしは安心して外に出られる(わたしはイスラムの女か!)。
◇◆◇
つらつら書いてるうちにずいぶん長くなっちゃったので、一度ここで切ります。もうちょっと書きたいことがあるので、次の記事に続きます。
最近のコメント